UP DATE 2010-08-25

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.N.HAYASHIのESSEY





林 信秋のエッセイ集
エッセイと言えるような内容のものは何もありませんが、
他にいいタイトルが見当たらないので取り合えずエッセイ集となっております。
文章を書くということは、ギター作りよりはるかに難しいということが分かりました。
読みにくい、つたない文ですがお許し下さい。
ご意見、ご感想、などお聞かせ下さい。
E-mail : info@atlansia.jp



23●向山雅子ちゃんのこと   準備中、ちょっとお時間下さい。
22●あれから40年
21●日本の家屋の障子
20●お墓の前で鳴らさないで下さい。
19●MARTIN GUITAR“ X ” BRACING についての推論 
18●自分のこと“私は元ぼうそう族でした”(笑) えっ、ほんと、うそでしょ。お楽しみに!
17●妻のこと   "MY BELOVED WIFE"
16●手鏡使用

15●フォトコンテストで賞金もらったら
14●楽器製作業として
13●木製玩具   "WOODEN TOY"
12●視力の衰え
11●山田君 元気かい!

10●NEW YEAR GREETING
9●ちょっと ちょっと あんたたち
8●イタリア クレモナ市
7●どうしてなの?
6●USA FENDER社にPATENT GUITAR NECKのセールス  NECKを持って乗り込む。

5●世界のベースギター界
4●新作のGUITAR
3●BODY SHAPE
2●ギターってなに?
1●ナポレオンの事 


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12-07/13

“ 向山雅子ちゃんのこと ”

  あの頃から、もう50年にもなる。私は美術大学に通っていた関係で、吉祥寺の確か東町というところに住んでいた。12畳の一部屋に4〜5人での生活だった。 この部屋の住人は、学生の私以外は、みな大学食堂のコックさんたちだ。途中から、大学浪人生が一人、仲間に加わった。 キャンパスまでは、ほんの2〜3分なので、見慣れてしまった単調な通学路だ。家並みの情景の中には、塀がつずいたり、アパートの北裏壁面だったりで、 刺激になるものが何もといっていいくらい無かった。短い時間だったが、退屈しのぎか意味も無く、生垣の葉っぱをむしり取り、いじりながら歩いた。 遠回りになるけど、ちょっと変わった道も歩いてみたいという思いで、車も走る、少し大きな道を歩いた。そこで気になる小さな、ちいさなパン屋さんを 見つけた。パン屋さんといっても、手作りの焼いたパンを売っているようなお店ではない、どこかの大手パン工場で作った、ビニール袋に入った既製品を 売っているお店だ。

  間口は二間くらいで、歩道のない道路と、高さがすれすれのところに、枯れ上がった木枠に、ガラスのはまった引き戸が4枚ほど並んでいた。 木枠の焼け焦げたような色とは似合わず、ガラスはいつもピカピカに磨き上げられていた。出入りの戸の戸袋の周囲だけは、少し白っぽく、 素地がでていて、出入りの人が、いることをうかがわせていた。引き戸を開け、敷居をまたぐように入ると、半間ほどの狭い土間になっていて、 その奥は一段高くなり、畳がしかれていた。すぐ裏に出てしまうような、奥行きの無い建物だ。、 その畳部屋の小さな二段の木枠のショーケースには、ビニール袋に入れられた、あんぱん、クリームパン、上げパンの類が、広げられたように陳列されていた。 時々、ちくわやソーセージの挟まったものも置いてあった。 売れ残りを心配してか、店頭在庫はいつも、控えめの感じだったが、店主がありますよと言っているかのように、見やすいように、置いてあった。 最初はどんなお店なのかなと思いながら、のぞいていたが、いつの日から、時々いくようになていた。 店主のお袋さんは、やせ細った、赤ら顔にしわを沢山作っていて、目はいつも泣きそうなように、潤んでいた。

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10-08/25

“ あれから40年 ”  ものまねから独創へ

  幼児が言葉を習得する過程は実に不思議だ。 親や周囲の人の口元を見ながら、繰り返し発せられる音を、何度も聴くことにより、 少しずつ言葉を学んで行く。生まれてから数年も経つと、ペチャペチャ喋りながら、 はしゃぎ回る姿は実に不思議で、微笑ましい。

  音楽の世界にも同じようなことが言える。誰かに影響され、ものまねで始まり、 やがては、自分らしさの世界が出来上がって行く。
私の場合、楽器作りを始めた当初は、海の向うから入ってくるものの模倣ばかりだった。 その記憶は、今尚鮮明だ。“ あれから40年 ”自分の制作姿勢は変わり、周囲の楽器のデザインがあまり気にならなくなり、いつの日か、 個性を求めるようになっていた。今では、借り物的発想をしていた過去の自分に恥じらいさえ覚える。 音楽は正に個性の表現、それを支える楽器も、独創的でなければと言う思いで、日々励んでいる。 今後も“ ATLANSIA”にご注目下さい。H.Noble   (地元学生音楽祭リーフレット コメント)    2010-08/25

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07-06/07
日本の家屋の障子 日本の家は紙で出来ていると思っている欧米人はまだいるのだろうか。多分、障子とか、唐紙のことではないかと思う。 ただいえることは最近の技術では紙で家を作ることは考えられないことも 無いということだ。家具の世界ではどんどん紙製が出てきている。

話が飛ぶが、私は少年の頃コスモスという花があまり好きでなかった。背が高い割りに花が小さく、そして少ない。 上の方ににチョンとした花が数個あるだけ。その割りに茎が丈夫で 他の草花のように枯れたら直ぐ土に帰って行くのではなく、始末が悪かった。 庭のすみによく積まれていたことを思い出す。 学校から家に帰ると、誰もいない。お腹がすいているが、お袋がいないので 戸棚を全て開けて、おやつを探す。見つからないので、諦めて何をすることもなく、庭をぼーっと見ていると, コスモスの花が何時も目に飛び込んできて、何故かコスモスに腹が立っていた。 あれ以来か、 コスモスにいいイメージがない。 そんな時、もう一つ目に入るのは、母が張り替えたばかりの真っ白な障子だ。 西日を満々に受け、白く輝いている障子は、 大きな照明器具のようで、 自分を照らしてくれる光線は不機嫌な一人ぼっちの自分を慰めてくれているようだった。 この日本の障子は、時々新しい真っ白な物に張り替えられ、部屋の雰囲気を一新して、別の物語が 始まるようだった。それは自分があたかも新しい家にいるかのようなのだ。どんなボロ家でも清潔感があふれ、 キリっとさせてくれる。モダンな家がどんどん出てきても、この障子は日本の住宅の一部に 是非残したいものだ。


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07-06/06
お墓の前で鳴らさないで下さい。
その昔、私が若かりし頃、エレキブームが起きた。新し物好きで、音楽好きの若者が真っ先にその楽器に飛びついた。しかし、年配の人たちの視線は 冷たく、あのギラギラした音は強い憎しみの対象となり、PTAなど至る所で迫害をうけた。行き場を失った彼らは土蔵にこもったりで、そのサウンド をむさぼった。それでも場所のないものは、墓地まで電線コードを引き、そこで鳴らしていた。疲れると墓地に座り込み、将来の夢など、語っていたのだろうか。 それとも、音がいまいちであることに気が付いて、墓石の前で話をしていたのだろうか。 音が悪い原因が電圧が下がってしまってのことと気が付いたのは、始めてまもなくのことだった。聴けないサウンドではないと思ったが。しかし、彼らはそのうちにそこを 諦めたのか、来なくなってしまった。いい場所が見つかったのかは分からずじまいだ。今なら、レンタルスタジオなるものがあるのだが、 才能を開花させることなく、諸々の環境で気持ちが萎んだとしたら、生まれた時代とは言え、気の毒なことだ。 あのギラギラ音に墓地に眠る魂も目を覚まし、ゆっくり休まらなかったか、 それとも若者たちの様子を微笑ましく見ていたのかは知るすべも無い。 今から40年も前の話である。世の中はいろいろ変わっていくものだ。

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2005 年11月15日
紀宮さま、黒田さんご結婚おめでとうございます。

   前途には未知のこと、未経験のことが沢山あろうかと思いますが、 健康で、明るい家庭を築いてくださることをお祈り申し上げます。 テレビで拝見させて頂きます披露宴での、お二人を見守る、天皇陛下、美智子皇后様のお眼差しは 安堵と寂しさに溢れるもので、人間的なお心を感じ、涙がどっと溢れ出てしまいました。 放映のバックは私の大好きな“涙のカノン”の曲で、 一層感動的なものにしてくれました。 黒田さんは私と同じカメラいじりがお好きなようでいらっしゃいます。 その設計者の苦悩への思いや、製作に携わった多くの方たちの苦労へのことに 思いを巡らせながら、手になさっていらっしゃる事と思います。 人間愛に満ちたお二人が末永くお幸せでありますようお祈り申し上げます。



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 私のこと

 

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 妻のこと 

  ●1969年26歳で結婚(妻22歳)、妻の父親に猛反対されての結婚だった。 ( 反対理由は不明、しかし後に、働き者のいい婿との高い評価を頂く。)マイホームを早く持とうと、新婚当初から妻は勤めをしながら、 毎晩遅くまで、資金作りの内職仕事をしてくれた。出産後も、子供を背負いながら内職で頑張り続けた。 きつい労働の姿をみかねてか、妻の父が土地を提供してくれたので、私はそこに工房付きマイホームを建てることが出来た。 (父の死後聞いた話だが、娘の苦労の様子にもうらしい”と言っていたという。)

  勤めていた会社を退社し、独立後は、現場の危険なプレス加工や木工加工仕事も手伝いながら子育て、家事、事務仕事をこなし、 これと言った趣味もせず ★、30年以上、馬車馬のように走り続けてきた。結婚以来、風邪を引いても寝込んだことは一度も無い。 熱があっても仕事のこと、家族のことを考え、現場に立っている。 子供たちとゆっくりした日曜日が幾日あっただろうか。 債務を早く終了させ、開放させてあげたい。 もっと違った職業の人と結婚していたら、お昼寝も出来たかもしれない。(因みにこの人がお昼寝をしている姿を子供たちも 見たことがないと言っている。)この人にかなう人は私の知る範囲に居ない。 いちばん私を支えてくれたこの人へのお返しはどうしたらいいのだろう。それは健康で今の仕事を続けることかもしれないと一人思う。

    妻はどんなATLANSIAの未来を想像して協力してきてくれたのだろうか。何を励みにここまで来れたのだろう。 装身具など欲しがったことは記憶に無い。愚痴を言うことはあるが、グッチーを欲しがったことはない。作業着は何枚も買ったが、 外出着は10年、20年前のものも大切に着ている。この人の生きる喜びは一体何だろう。 さんざ、身を粉にしてやってきたが、ATLANSIAはいまだに低空飛行だ。 何の資産も無しで事業を始めた自分たちにとっては、ただ働くしか考えられなかったのだろう。   そんな自分の後姿を子供たちが見ててくれれば、いい贈り物になると思うこともあったかもしれない。 ひたすら勤勉に働くことが、自分のやるべきことと心に決めていたのだろうか。

   私は、外国誌の取材を受けたり、スポットライトを浴びたこともあったが、 この人と結婚していなかったら、今の私は無い。生まれ変ってもう一度結婚するとしたら、 またこの人にお願いするかもしれない。 ただ、断られるような気がする、プロポーズが怖ーい(笑)。★   好きなことを勝手にしている私は、この妻の前で胸を張れるものが何もない。

★プロポーズ: OK返事欲しさに怖さを忘れ、、、、。08/12黙々と洗濯ものを干しているところへ、勇気を出して遂に質問に踏み込みました。

♪初めて出会った頃に〜〜♪ もいちど戻ってみよう〜〜♪

( 松本弁です。)
■(私)あんさあ、あれはなにかいやあ?。(切り出しがうまく行かず、思わず出てしまった言葉))
●(妻)あれはないかいってなにさあ。

■いきなりこう言うこと聞くも変なんだけど、もし、人生やり直しで、またお前に結婚してくれっていたら受けてもらえるかいやあ?
●やーだやだやだ、勘弁してもらうわ。   (■もっこし優しい断り方があるように思うけど、、、、。)

■そーだよなあ、言えてるね。愚問だった。
●あたりまえじゃん。

■やっぱあ聞くんじゃなかったか、、、。
●何でまた急に?、そっちこそどうなのよ?

■やっ、べつに、ただどんなもんかいやあと思って。俺は勿論、、、さ。

<反省>洗濯物干している傍らでは聞く場所もまずい、やはり、この類の会話はWINEでも飲みながら、 美味しいお料理で雰囲気作りをしてからでないと、OKをもらうのは無理かもしれない。 この年になっても何も分かっていないということか?!。 それと夕べ、ヨン様の映画見たばっかりで、その余韻がまだ残っていると思われるし無理もない、タイミングもまずかったーーあ。 今から30年以上前になるが、あの頃に戻ってどんなだったか検証してみたいし、新鮮な気持ちを再現し、 その心境に近づくことが出来るのか好奇心もあったのだ。子供たちも30を過ぎ、愛とか、恋とかとはもう無縁の60を過ぎるというのに、 何を考えているかと言われそうだ。分かっていることだが、 はっきり言えることは当時の期待と不安感の混じったドキドキ感がないことだ。しかし、同じことがあることに気が付いた。 それは何とも言いようの無いあの照れくさいテレテレ感だ。どうしてあんなに照れくさいんかねえ。全く何をやっとるのか笑っちゃうね。

   これからプロポーズを考えている若い方々へ、くれぐれも失敗のないよう、参考にして下さい。
   因みにこの人に言われて一番嬉しかった言葉は結婚前だったが、 ねえ、私たちの忘年会もしない?”でした。 もうこの人しか居ない、この人に決めたと言う、平明で安心した気持ちから思わず出た言葉だったのだろう。よかったら使ってみてください。

自分は何時かは、この世とお別れして、次の世界に旅立つ。その間際に相手に対し、お礼の言葉がしっかり言えたらいいのだが、 もし、言えなかったらどうしようと一抹の不安を持っている人はいるだろう。早い時期に言っといた方がいいのかもしれない。



● 愛妻写真  
2,
4,
6,
8,
10, 二人の子供たちと。
11, 愛犬茶毛と。(娘は可哀そうと泣きながら我が家に連れてきた)
12, 私の書斎にて。
13, 1997.03.04プレス作業(危険なピンクラッチプレス)。
14, 2000年諏訪湖一周の時。今までに二人で30周ぐらいしたと思う。1周4時間くらいかかる。
16, 2000年北アルプス燕岳登山の時。
18, 2004年北アルプスを望むヤナバスキー場にて。
20, 2003年元旦上高地、河童橋にて。
22, 2005年7月ライセンス生産のF社NECKの加工、大型木工機械を3台同時操作の作業だ。( 自作NC機、手押し鉋盤、厚さ決め機 )
24, ( 同上 )
26, 2005年7月ライセンス生産のF社NECKの指板貼り作業風景
  妻に内緒で掲載。型破りなことで、甘っちょろいと言われるかも知れないが、私も60歳を過ぎたこともあり、 写真掲載と妻について書くことの決断が固まった。どんな人でも、いろんな苦労の経験を背負っている。 だから特別なものでも何でもないので、サラッと読んで欲しい。 人生ドラマを感じとっていただく為、写真を何枚か掲載することにした。 この笑顔から内面の苦悩は感じられないかもしれないが、 ギター作りの私の夢のために耐えてきたこの人を見て上げて欲しい。胸が痛み、お話出来ないことが幾つもある。

   当時、社員のいない日曜日に、よく重量木工機械の工場内移動をしていた。1トン以上もあるプレス機をレイアウト変更 ★ の為、 バールやコロを使い、二人で移動した。その時、手番をする妻は、恐怖のあまりガタガタ震えていた。 また、ある時、“もう手が動かなくて、お茶碗が洗えない”と流しの前で泣いていた。 下請け仕事のフレット打ちを、毎日何百本もやり、 ニッパー作業で手が疲れ切ってしまったのだ。会社が抱える諸問題で疲労困ぱいし、精神安定剤を呑みながら現場に立っていた時期もあった。 結婚前は細く長い美しい手をしていた。爪の形も長く上品で、フィンガーモデルになれそうなくらい惚れ惚れする手だった。 その指を私は大事にして上げられなかった、、、、、、、、後は辛くて書けない。 いろんな酷いことをさせてきてしまった。正に身を削って生きてきたのだ。

   同じ人生をこの人を引連れて、もう一度歩む自信はまだない。今でも(58才) 、話声も聞こえないほどの騒音の中、手の痛い所に梱包用のガムテープを貼り、大型木工機械で下請け仕事をしている。そして、休日や夜は事務仕事を片付けている。 “こんなに苦労させて、愛妻などといわなんで欲しい”と言われそうだ。過酷と言う壮大なドラマの中を生きてきた人だ。 特に、これからギター製作家を目指す若い人に、妻の存在とは何かを感じ取っていただき、そして、 自分の人生シナリオ構築の一助になれば先輩としてうれしい。  HOME PAGEにはあまり無いスタイルかもしれないが、自分の妻を褒め上げたり、自慢している訳ではなく、 正直な気持ちを出してみたかった。  いつか二人で、北海道に車で行こう、と約束している。 (2005-06/20記)



★ 趣味 :最近、お友達に勧められ、太極拳をはじめた。先生に褒められたといって得意そうに家に帰ってくる。 他に、40才台後半からスキーを始めて、一冬に10回くらいやっている。私が見る限り、かなりのもので、2級の技量はあると思う。 何時も私より先に急な斜面を降りてしまい、リフト乗り場で平然と私の到着を待っている。速くて追いつけない。その姿は弾丸のようだ。 三浦雄一郎さんのお父さんが滑降したモンブランも出来ると思う。高齢者のスキー大会でもあれば是非出場して披露して、 元気を撒き散らして欲しい。 勢いあるその姿はきっと多くの女性の励みになると思う。
   また、3歳になる孫とも楽しい日々を過ごしている。 今日(05-06/ )、新たに孫が二人誕生した、林家も賑やかになってきそうだ。彼女がとても生き生きと幸せそうにみえる今日この頃である。

★ レイアウト変更 :最近では妻が一人でこれをするようになった。というのは工場内設備の90%以上にキャスターが付き、 昔のような移動の苦労はいらなくなった。 彼女は能率UPの為のレイアウト変更がとても好きのようだ。

★  自分で書いたこの文を毎日のように読み返している。妻に何時このPAGEが見つかってしまうかとドキドキしている。 ボーッと昔のことを思い出していたら、今日も、何故かこみ上げて来るものを押えられなかった。 感想をお寄せ下さいました方々に、深く御礼申し上げます。(05-07/09)
やはり、機会をみて妻に知らせようと思います。

★   8/16 遂に話すことになる。妻は即パソコンの前に行き、身動きもせず、食い入るように画面に顔を近づけ、 文字を追っていた。一人でゆっくり見てもらおうと私は、途中で退席した。見終ったあとは無言のまま自分のすることを黙々とこなし、 会話を交わすことも無く、床に入った。思うことがあり過ぎて、自分の頭の中で整理が付かなかったのかもしれない。 私もそっと静かにしているのがいいと思い、このことについて話しかけることはなかった。

★2007-03/30 この3月で還暦を迎えた妻が遂にインフルエンザで倒れた。結婚生活40年の中で、風邪で寝込んだことの無い彼女だった。 途中、工場のことが気になり、気力で這い出して来て数時間ほど頑張ったが子供たちにも止められ断念し、床に戻った。そんなに 無理しなくてもいいのにと思うが、やはり自分が納得しないようで、頑張りやの性格の一端がでている。 保菌者ということで、医者から家族とは別室で寝るように指示があり、思いがけないところで 家庭内別居というものを体験してしまった。覗きに行くと、うつるで来ないでと強く叱られた(笑)。この冬は念願の 孫とのスキーも出来たし、ゆっくり休んでもらいたい。



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 手鏡使用 

     手鏡の使用方法には色々ある。使い方で世間を騒がした人もいたようだ。 工学の専門知識のない頃のこと、数値制御(NC)の工作機が欲しくて、東京晴海工作機械展によく見に行った。 当HPに登場しているフライス盤、旋盤もこの展示会で品定めして、購入を決定したものだ。 NC機械の金額は数千万円と目の玉が飛びでしまうようなものばかりだった。いつの日か、自分で作ったら、不必要な機能を省け、その分安く出来ると思い 、調べだした。知らないこと、分からないことばかりだったが、諦めの気持ちはなかった。

  そこで、先ずは色んな機械を見ることだと思い、機械展を見に行った。サーボモーターの電気容量などが知りたくて、 係員の隙をみて、機械の下に潜り込んだりもした。展示しているのだから何処を見てもいい筈とマナーなど忘れていた。頭を突っ込み、 その頭を振り返らせないと見えないものもあった。係員に見つかってしまい、 何回か注意された。こんな時、あの手鏡が 有ったら、、、と、次回からは手鏡を持って来ることを決意した。(今だったら、カメラ付きケイタイで簡単だが、、、。)読み取った数値はブースから少し 離れたところで、すかさずメモをした。展示を見終わった帰り道、集めたカタログ類はとても重く、ブースを回って疲れた体にはこたえた。

  新宿駅に着き、中央線に乗ったときは俄然元気が蘇る。それは、駅の売店でワンカップの日本酒を買い、飲みながら、さっき、機械展で 貰ってきたカタログがゆっくり見れるからだ。これは私にとって、とても充実した時間なのだ。 その後、4〜5年ほどしただろうか、NC工作機械は完成した。出来たと言えども、主軸機械は既成品の流用、そして数値制御の コンピューター部分はFANUCのものだ。それではこの私は何をしたかと言うと、XYテーブルを作り、サーボモーターなど を組み込み、制御装置と連動させるなど、システムアップをしただけだ。この機械は現役で今日も活躍している。完成させてから、 もうかれこれ十数年たっている。2号機も作ってみたいと思っている。

  当時、集めたカタログ類はいまだに保管されているものもある。楽器に関する資料より、はるかに 機械製作に関するものの方が多い。何かやろうとする時、先ずは強い、確固とした意思を持つことが大事、とある大先生から聞いたことがある。 かなりのことが何とかなるようだ。 このおじさん(自分)は、先輩たちが何をしてきたか、どんな生き方をしてきたか、とても興味を持ってきた。 技術の継承は、同質の集団を脱し、世代を超えた交わりが無いと難しいのではないだろうか。 先輩たちの生き様を知ることは、君達の今後の生き方にとても役立つとおじさんは考える。これは何百万年も続いた 人間の生き方そのものなのだ。 燃えよ!青少年諸君!流されるな!燃える(初)老クラフトマン  N.Hayashi (2005-05/01) (05/08一部加筆)(07/02一部加筆)
 

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フォトコンテストで賞金もらったら

家計を握っている男性には、ばかばかしい内容です。男は辛いよ、といったところでしょうか。(笑)
もし、宝くじとかが当たったら、というような、無いに等しい話ですね。
  
  フォトコンテストで賞金もらったら、必ず返すと言って妻に買ってもらったカメラがあります。 いまだに入賞したことがありません。あまり出品もしておりません。“ ご褒美もらったら、、、、、、 ”と言って、 重い三脚を背負わせたり、レンズを持たせたり、勝手なことをしてきてしまいました。 賞金を渡すと言うことについて、妻は“ どうだか? ”と言いながらも、あとは黙って協力してくれていました。 ところが、忘れて、既に時効かと思っていたこのことを、ある時、妻に突然指摘され、ビクっときました。 そこで私は“ もうちょっと長い目で、そして大きな気持ちで見てて欲しい、--  駄目なら年金もらったら返すから。” と、とっさに浮かんだ言葉を投げかけました。 具体的反応がなかったので、自分としては、まずまずの出来栄えの対応だったと感じました。この件は、その時限りで耳にしません。

  大分日が経った今、妻がそのことを覚えているかは分かりません。確かめようとすれば、 当時の記憶を呼び起こすことになるので、寝たと思われる子をそっとして上げています。 妻としては、問い詰めたところで“ どうせ、この人は、、、、。”と思っているから言わないのか、それとも、 もしや、何十年かして、突然、ぽっと言い出すのかもしれない, そんな思いがよぎりました。ほんと、女性は、何年も前のことを執念深く覚えているので分かりません。 “ 言われたらどうしよう?”。 私の根拠の無い、いいかげんな言葉に、自ら笑いそうになり、妻の視線を避け、大きく開いてしまった小鼻の 動きで、鋭く内面を見抜かれてしまうかもしれません。その時は、その時で考えることにして、今はあまり気にしない ようにしていますが、ちょっと辛いものを感じます。(笑)

  あれから何年経ったでしょうか。いよいよ年金を貰う歳、つまり還暦を迎えてしまいました。さー大変!。 ネンキンそう、この響きは何ともいえない心地よい響きでしたが、あの時、年金という言葉を口にしてしまったお陰で、 全く逆の暗い響きになってしまいました。一層の事,綺麗に精算して、すっきりした気持ちになろうかなとも思っています。 そうしないと、GUITAR製作にも専念出来ないし、余り、いいことがなさそうです。



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楽器製作業として

  数年前、アメリカで実際あった話である。白頭鷲の生息するメイプルの森が伐採されることを知った市民が、 反対運動を起こし、そこから切り出されるはずの材木は、伐採禁止となってしまった。日本でも、 長野冬季オリンピックの競技場近くに、オオタカが棲息するというので、関係者が場所の大幅変更を余儀なくされた。 鷲、鷹の猛禽類は食物連鎖の頂点に君臨している。その鳥達が生息しているということは、 我々人間たちが生活するのにも安心ということなのだ。つまり、鷹鷲の餌となる小動物、 そしてその小動物の餌となる更に小さな虫たちが生息できる快適な環境なのだ。

  現在、我々クラフトマンの使用している材木は殆んどが輸入物になってしまった。 その昔、国産の材木を使っていた頃は丸太を買い付け、運び込まれた材を見ながら、 歩留まりを考え、製材したものである。今、そこまでしているギター工場はないのではないかと思う。 輸入材もはぎ目無しで、ボディ1枚が取れる幅のものが少なくなってきてしまった。

  今迄 クラフトマンとして、木材の一番美味しいところをむさぼり、残った部分に配慮が行かなかった。 有効利用を考えずに好きなように材を取り、かかった材料費をPRICEに添加して、製品が売れれば損は無いからそれでいいという 乱暴な辻褄合わせの発想の時代は終わったのだ。 これだけ色々なところで、森林資源保護、自然愛護が叫ばれる時代になると、 木材資源で恩恵を受けているものの一人として、 何か出来ることはないかと考える。今の世の中の状況がもっと深刻になると、木材を使った楽器には 天然資源保護税とか 緑化税がかかってくる可能性は十分考えられる。 アトランシアでは 希少材料のさざ波模様や、 鳥の目模様の材を追い求める気持ちを少し抑え、その分、楽器としての本質を高める、 機能性を重視した他のハードウエアなどに、 向けられるようにと考えている。 巻頭の文に戻るが、我々クラフトマンも今までのようにただギターを作っているわけには行かなくなってきている。 人々を癒すいい音のする楽器作りは自然環境保護、森林資源保護を無視しては出来ない世の中になってきたようである。 作った楽器を自慢げにかざしても、それが環境破壊につながっているとしたら、心の痛むことだ。 発想の転換が迫られ、取り組む姿勢が求められている。環境破壊を突き詰めていくと皮肉にも、自分が地球上で生活していること自体が 地球環境を破壊しているようだ。(笑)(2004,08/31)


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木製玩具

 
●以前から、木製玩具を色々作ってみたいと言う夢を持っておりました。なかなか出来ませんでしたが、 ようやく孫の誕生を機に、行動になり始めました。 現在、世の中に出回っているものの多くの玩具が、プラスチック製と思われます。安価ですし、 カラフルでとても綺麗ですが、単純色なので、色彩感覚を養う上で疑問な面があります。 また、成型の時使われる離型剤、可塑剤は有害とされており、 こんな話もあります。今から約30年程前、ベトナム戦争で負傷兵が、プラスチックの容器に入った輸血を受けて亡くなりました。 ガラス容器からの血液を受けた兵士には、そのような事がなく、犯人はこのプラスチックの可塑剤と断定されたのです。 今日、その可塑剤がどのように改善されたかは定かではありません。非人間的素材ともいえる部分は否めませんが、 プラスティックスを否定するものではありません。良い面も沢山あります。我々の生活に革命を起こしたのは事実であります。 一方、ヨーロッパ、取分け北欧では、木製玩具が盛んに作られ、 何世代も同じそれらで子供たちが、豊かに成長しているようです。 私は以前から、木を人間性素材と呼んでまいりました。木は人体に害は無く、 優しいぬくもり感があります。使用後、ゴミとして排出されても、処理もしやすい天然素材の代表的存在です。 プラスチックに比べて,あまり量産的ではないという製作上で問題もありますが、それらを乗り越えながら、 挑戦してみたいと考えております。そして、ちょうどよいことに、自分の孫というよき回答者とともに、 夢を形にしてまいりたいと思います。 孫の反応も、開発、製作の楽しみの一つです。

(2003-10/12 )


     ●霊長類、取分け人間は幼少期の成長が他の動物たちに比べて遅いようです。 野生に住む動物たちは、敵から自分の身を守る為、生まれて数時間で走り出します。 それに比べて人間の場合はなかなか時間がかかります。それは人間が何百万年も前から 大家族で生活をし、生まれたばかりの赤子は、祖父母、 おじ、おば、兄、姉などにも面倒を見てもらいながら、集団生活の中で守られ過ごすので、 成長を急ぐ必要が無いと考えられています。いずれにせよ、子供は、自分の力で親や 環境を選ぶことは出来ません。無力な子供が 虐待を受けたりする不幸な出来事が多くなっています。 現代社会では、大家族時代とは違い、人間関係が希薄で、限られた中だけで過ごすことが多く、 そのことが色々な問題を引き起こしていると考えられています。ネグレクトの子供のこともとても可哀想で、気になることです。 恵まれてばかりいない子供たちのことを考えると、おもちゃを作っていて胸に痛みを感ぜずにはいられません。 こうした子供たちの心を開くのに、これらの玩具のデザインが少しでも役に立てばと思います。 また、そうするにはどういうものがよいのか、考えながら作って行きたいと思います。 先人の知恵が、子供たちの成長のために生かされていくといいですね。(2003-8/05)、(8/15)

“ぼくがぎゅう抱っこして欲しいって言ってたって園長先生からお母さんにいってよ。”   “お風呂に一緒に入りたいっていってよ”、、、、、虐待で命をなくした子供の魂の訴えです。 こんなに心が痛む話が他にあるでしょうか。とてもいい子だったようにこの言葉から想像します。 書かずにはいられませんでした。かわいそうと思うだけで、何も出来ない自分を情けなく思います。(2003-11/09) 

                                             
  今日11月11日の民放お昼のTVに、塩川元財務大臣が出られまして、 この荒んだ社会を何とかしたい、と申されておりました。そして、世のお母さん方に “どんなに忙しい時も我が子を抱きしめて上げて下さい。” と訴えておられました。以前から、この方はエリート コースを歩み、そして大臣まで上り詰めたにも関わらず庶民的で、 威張らないので好きでした。その塩川さんが、人生最後の仕事に選んだことは、子供たちがいい子に育つように、 子供の教育に力を注ぎたいとのことです。政治家の中には、色んな人がいますが、社会のために、 私財を投げ打っても活動するのが政治家と思います。今の政治家は大方が自分の私腹の為のようですね。 庶民とは桁違いの収入があり、いい住まいを持ち、美食をし、上流社会の中で生活をしている、 そんな人に庶民の気持ちが分かるのでしょうか。だから、若者が馬鹿馬鹿しくて選挙に行く気になれないのでしょう。でも、 投票しなければ社会は変わりません。立候補した人の中に一人ぐらいまじめな人いる筈です。 塩川さんは異色の政治家のように思えました。やはり、 塩爺さんの名に相応しい、優しい人だったのですね。   久々にボリュームが上がりました。以上(2003-11/11)


ATLANSIA 高品位 木製玩具

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(2002-06/15 )

視力の衰え。

 
最近、随分視力が衰えてしまった。虫眼鏡は何処に置いたっけ。 新しいPARTが出来あがると、虫メガネの所在の確認でそわそわしてしまう。 さっき出来あがったPARTは、ズボンのPOCKETの中で温まっている。時々手を入れてその存在を確認する。 今日は、新しいTYPEのARS PICK-UPが出来あがった。今度のCORINT BASSに付けるものだ。じっくり見たい気持ちを押えている。 そして、夜の来るのを待つ。寝床に入ってからうつ伏せになり、あまり頭が熱くならない位置にARMライトを構える 。昼間用意したルーペを取りだし、しっかり見詰めながら、色々なことに思いを巡らす。 腰が痛くなり、疲れてきてはじめて仰向けになる。後はPARTを握りながら、眠くなるまでこのPICK-UPの発展、 可能性を考えながら眠りに着く。夜中に背中が痛くなり、フトンに手を入れると、さっきのPICK-UPが出てくる。 そっと枕元に置く。小さい頃、よくオモチャを枕元に並べて寝たものだ。男はいくつになっても、気持ちは子供なのかも知れない。


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(2002-05/31 )

山田君 元気かい!

 
山田君! 昨夜、君が大学を卒業してしまった夢を見て、飛び起きてしまいました。 まだ、大学合格おめでとうのお祝いの言葉も言ってないし、近況報告の手紙の返事も出してないのに、困った事になってしまった、 と焦ってしまいました。こんにちは。この前、お便り頂いてからすっかりご無沙汰、失礼をしてしまいました。 どうか、このズボラなおっちゃんをお許しください。実は以前、"山田君の思い出"と称してエッセイを書き始めたのです。 そして、当HOME PAGEに載せさせてもらおうと思っていたのですが、頓挫、今日まで来てしまいました。 日頃思う事は、"山田君のような青年が、世の中に沢山いたらいいのになあ"と言うことです。    今の若者は、同質の者としか交わらない人が多いので、人生の指南役が割と傍に居ないのです。 先輩の経験や知恵を伝授、それを若者が享受、人類はこのようにずっとやってきました。 動物の世界も同じです。私は指南的な事は出来ませんが、参考になりそうな失敗談をお話して上げることは出来ます。 エレキのBODYごしごしサンドPAPERで磨きながら、今の世の中に腹がたって腹がたって、遂、力が入り過ぎ、 変形してOUTLET商品を作ってしまいます。HOME PAGEに載せるこの類の商品には、何時も製作者の言い訳めいたコメントが付きます。 今度、正直に頭に血が上ったと書こうと思っています。(誰も買ってくれないかもね。)最後に、 うんと可愛い性格のいい彼女見つけてください。松本から陰ながら応援しています。 結婚式の時、祝電打ちたいので教えて下さい。まさか、こっそり学生結婚などしてないよね、ヤマダクン。


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(2002-01 )

NEW YEAR GREETING
 感動と創造の日々がまた始まる! 
 混迷から脱出し充実の年にしよう!


 この世界の混迷の時代に、GUITARの果たす役割は何だろうと考えた時、平和な時代より、一層真剣さが求められます。 会社の存続、維持にBUSINESS的発想は無視できませんが、伝統や過去のなめ直しのGUITARだけではなく、 その果たす役割とは何かを考え、ARTIST、 MUSICIANからの要望や夢も理解しつつ、 DESIGNERの一人として少しでも進歩、 発展した楽器を創出させることが大切と考えます。 その結果、演奏に可能性が開け、音楽も変化していく、 SOFTとHARDがそんな関係であればこの世界は より一層感動的で、人々の心を癒し、そして豊かなものになると思います。 BUSINESSにあまりとらわれない自由な発想で、製作に専念出来たらいいなと思いつつ、背負った矛盾を整理しながらのSTARTとなりました。 今年もATLANSIAにご注目下さい。
燃えています。
2002年元旦 N.Hayashi

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(2001-8)
私にも遂に回ってきました、町内会役員。 そこであまり魅力のない町会たよりを、より多くの方に読んでもらおうと、1年の任務完了時に、こんな挨拶を イラスト入りで、載せさせてもらいました。型破りの挨拶かもしれませんが、まあ読んでみて下さい。

ちょっと ちょっと あんたたち 

ちょっとちょっとあんたたち胸張って生きてる?。 あたしをみんさい。 人が見てないって、そこいらにゴミ捨てていない?。あたしこそこそしてんのって大嫌い。 人間は、何時も誠実で堂々としていなきゃだめだじーっ。あっ、そうそう言い忘れてたけど、あたしの名前、 藤子っていうの。ルパン3世の藤子みたいってよくいわれちゃってさあ。

あんさあ,話変わるけど、あたしこないだ、 ボトル キープッてくれてるお店に行ったの。 ( あたし結構好きなのよねー。 ようめい酒から芋焼酎、バーボン、ウオッカ何でもよ。)そしたら千客満席でさあ、 ギュウギュウのつもいとこへ、このH99(これ内緒だから誰にも言わなんでー。)が座らされちゃってさあ、 まあーず。最初お尻持ち上がって浮いていたけど、そのうちに誰かトイレに立ったみたいで、ストンと落ちて収まったんさーあ。 その時、隣に長髪で若作っている初老のおっちゃんがいて、 “日本人のモラルはなっちょらん!。”ちゅうてやけ酒っていたの。ヤバイとこへ座っちゃったなと思ってからよくよく そのおっちゃんの顔みたら衛生部長の林さんじゃーん。 この人も結構真面目だからたいへんなのよねー。まあ気分を直して、あたしと “ LOVE LETTER FROM CANADA ” ちゅうのでもデュエットらない?って言ったら、とたんに 元気になっちゃってさあ。この人、メガネなんか架けてインテリってるけど、結構遊んでるかもね。 なんかATLANSIAちゅーっギターの製作家とか聞いたけど、ちゃんと出来てるんかねーっ?。

さんざ騒いでお店出る時、送ってあげるなんて言われたら、何んて断ろうかとビクビクしていたらなーに  “今度ぼくといつか一緒にプリクラない?”だって。何考えているんかねえ?凄い美人で、 働き者の奥さんと子供もいるちゅーっのに。それと何言うかと思ったら“ ゴミの中には危険で汚いもの沢山あるから ゴミ ステーションの清掃当番の時、気をつけて ”だってさーあ。この人酔ってても、 あたしを気遣ってくれて、ほんとに優しい人なんだなーあって感激しちゃった。 あたしってこう言うのに弱いのよねー。今年1年、この人なりによくやったみたいだから褒めて上げたい。 “ 今夜は久々にハッピーに過ごせたわ、ありがとう 林さん!生きてるって素敵ね ジャーネーッ! ”。

 “ 1年間ありがとうございました。”  町会 衛生部長 林 信秋




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イタリア クレモナ市

昔、イタリアのクレモナと言う所には沢山のヴァイオリンの職人さんがいました。 当時,機械設備のようなものは殆ど無く、彼らはノミ,かんな,鋸と言った道具を 巧みに用いて、あのような美しい楽器を作り上げたのです。中でもアマティ、ストラディヴァリは 名工と言われた職人でした。彼らがもし現代に生きていたら、恐らくコンピュータを駆使し、最先端の工作機械で、 ヴァイオリンを効率よく、しかも、より正確に作っていたに違いありません。私はいつもそんなことを考えながら、 工作機械を作ったり、ギター作りをしてまいりました。 但し、私は機械が万能で手作業を軽視するものではありません。 ATLANSIAには、手作業的要素もたくさんありますし,最終的には、手の感覚がとても大事と考えています。 どうぞ私の作った機械達をご覧ください。そして注ぎ込んできた膨大なENERGYを感じ取ってくだされば、 とてもうれしく思います。(2001-2-12記)( Please see MACHINERY page )




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どうしてなの?

●ATLANSIAのNECKってどうして太いのってよく聞かれるんです。それはこれこれこうなんですよ。 納得してもらえたんだろうか心配です。もともと職人はお話が下手と言うことになっているので、 ここでもう一度お話させてください。結論 @いい音の出るGUITARを作りたいからです。 A弾き易いNECKを作りたいからです。後者に矛盾を感じた方いらっしゃると思います。 薄くて細いNECKを職人が作るの簡単なんです。その方が受け入れやすいこともよく存じています。 じゃあ何故?薄細NECKは長時間のGRIPで手、指が疲れてしまうと言うことが知られています。 私もそうずっと思ってGUITAR作りをしてきました。違う楽器ですけど、フルートにはわざわざGRIPを太くするアダプターが あるぐらいです。でも大丈夫です。ATLANSIAはそれ程頑固では有りません。GRIPをドーリア(太)、イオニア(中)、コリント(細) の3種類の太さから選ぶことも可能です。




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(2001-6/27), (2003-6/20)

USA FENDER社にPATENT NECKのセールス、  NECKを持って乗り込む。


朝の一仕事を終え 工房のおが屑の中から這い出し、久々に着慣れぬ背広に身を包む。大きな鏡が全身を映し出した時、 ちょっと照れくさくなる。髪の長さはこんなんでいいのかなと一人思う。 “何時もそのネクタイだけど、たまには変えたら”っと妻がぼやく。私は何も答えない。 決して無視ではない。長い間夫婦でいるとそれが返事なのだ。考えてみれば日常の中で 随分口を明けることを省略しているものだ。

   さっきまでおが屑の中にいたのに、今はもう成層圏の中だ。そう言えば、は 越冬のためにヒマラヤの上空を飛んで、インドに渡るって誰かに聞いたっけ。生き抜く為なのだ。そう、 この自分も飛行機でだけど、ビジネスを成功させ、周囲を養い生きぬく為なのだ。 そんな目的で大空を飛んでいる事は 鶴と同じだなと思った。色色考えていると眼が冴えて眠れない。スチワーデスに頼んでSCOTCHを貰う。

何処かのウイスキーMAKERのコマーシャルのような話になるが、小さい頃、親父が大事に床の間に角瓶を置いていた。 勤めから帰ってくると、先ずそこへ行き、瓶から外したキャップへなみなみとウィスキーを入れてから、 一挙に顎を天井に向け飲み干す。最後に何時もチュッと締めくくる音を発する。学校からの宿題をしながら、 じっとそんな親父を観察していたもんだ。ある日、学校から帰ってきて誰も家にいなかった時、親父が何時も一人でうまそうに飲んでいた ウィスキーとやらをこっそり頂いた。恐る恐る口にした瞬間、強烈なアルコールの刺激に、飛び上がりそうなくらいびっくりしてしまった。しかし、 不思議な事にこれにこりずに次の日、二回目に挑戦していた。口に含んでは舌ともてあそび飲み込むタイミングを思案する。 毎日カバンを放り出した私の足は床の間に向う。考えてみれば親子で一つの瓶の中身を求めてそこに向う時間帯が違うだけなのだ。 幾日続いたんだろうか。ほんとうに美味いと思うようになってしまった。それからどうやってそのいけない行為から脱出したのかは覚えが無い。 今、シートにふか深と身を埋めウィスキーを飲んでいると、あの時の美味さが蘇えってくるのである。 こんな遠くまで来てあのころの自分を思い出してしまった。ウイスキーの話が長くなってしまったが、 いよいよFRANKFURTに到着だ。

私は当初日本SIDEの関係者に “PERFECK”のFENDER GUITARへの採用希望を打診したが結局直接と言うことになり、 W.シュルツ社長にTELEXで打電しFENDER社(USA)でお会いする約束をした。しかし、 急きょドイツのフランクフルト MESSE会場に変更になったのである。( 続く )

私は、HOTELで状況を想定しながら、以前、拾い出した英単語をもう一度、豆NOTEを見ながらCHECKしなおしてみた。 そうだ、 出来るだけこちらのPACEで話を進めよう。そうしないと想定していたシナリオから外れた場合、 自分の英語力ではパニックになってしまう。あらかじめ用意した内容で言いたいことを伝えれば何とかなる。 そう考えるしか他に案は浮ばなかったのだ。いよいよ約束の日が来た。近年、体験して無い不安と期待が入り混じった 典型的精神状態だ。約束時間はAM10:00だった。かなり早目にFENDER社のBOOTHに着いてしまった。 周りをぐるぐる何周しただろうか。落ち着く為立ち止まって深呼吸もした。 最後の深呼吸をBOOTHの入り口で大きくして中に踏み込んだ。“私はこういうものです。” と受付の人に伝えた。即、商談室に通された。そこには既にTABLEの周りに左からシュルツ社長、 ブルース ボーレン、そしてダン スミスの各VICE PREIDENTが待っていた。私はお決まりの挨拶をした。 自分としては以外と落ち着いたSTARTだった。何かお飲み物はとダン氏に聞かれ、 とっさに浮かぶものはCOKEしかなかったので、それを頼んだら、何処でも見かけるあの赤いCANがでてきた。 “早速だが、現品を見せていただけますか”と社長が切り出した。私はおもむろにPACKAGEを解き、NECKを差し出した。 沈黙の時が流れた。そしてダン氏がTRUSS RODは効くかと尋ねた。勿論と言わんばかりに“YES!”と答えたが、 一呼吸も無く発してしまった。“貧弱な英語ですけど説明させてください”と言ったら、ボーレン氏は “私だって日本語が出来ないのだからかまわん、かまわん。もし何だったら通訳をお願いしましょうか?” “いいえ、必要ありません。”(2003-6/20)

私は会話には自信が無かったのだが、相手を煩わすことは迷惑と考えた。質問は次々と出た。 そして、最後に難題を提示されたと言うか、求められてしまったのである。それは当初、 私が想定していたシナリオとは違った方向だった。



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2001-6/3

●世界のベースギター界

世界のベースギター界に多弦化の波が押し寄せている時、 WAIT!少ない弦のベース、つまり少弦化、削弦化 減弦化があってもいいのではないかと、頭の中が逆方向に廻り出してしまいました。 その時出来たのが1弦ベースなんです。他に2弦、3弦等がありますが。その製作を容易にしたのは、 もう何年前になりますか、工房スタート時からやっていた各弦独立の設計思想だったのです。 PICK-UP、TAILPIECE、WINDERと言うHARD WAREのモチーフを、それぞれ持ってきて並べれば出来あがりと言うわけです。 この思想は、逆に多弦化も容易にしました。6STのRANDY PRATT MODEL等がその代表とも云えるでしょう。




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( 2001-6 )

●新作のGUITAR

新作のGUITARが組み上がる時間は夕方がいい。自宅に持ち込まれ、STANDに立てられたGUITARを見つずけながら、 もくもくと夕食をかき込む。家族が何か話しかけても答えない。そして後は、夜が更けて周囲が静まるのを床の中で待つ。 みんな寝静まってから、腹の上に乗せたGUITARの弦をおもむろに一本ずつゆっくり鳴らす。 この時をどれほど楽しみにしてきたことか。時には少し枕を高めに構え、BODYに耳を当て、SUSTAINを確認しながら弾く。 楽器を作りながら何時も不思議に思ってしまう、木と弦の組み合わせで、どうしてこんなに鳴るのかと。 其のまま知らずに寝てしまった時の翌朝は、GUITARが畳の上に放り出されている。思わず一人で笑ってしまう。





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( 2001-6 )

●BODY SHAPE

BODY SHAPEを決めるまでどのくらい時間を掛けただろう。 SECTION PAPERに描いたSHAPEは、寝室の丁度自分の枕の真上に位置する天井に貼られる。 室燈が消され、床に入ってから豆燈が薄っすらとさっき描いたBODY LINEを浮き出してくれる。 こうして寝ながら見上げていると、実に快適にBALANCEの良し悪しがCHECK出来る。眠くなるまでの長い間見詰め通うしている。 翌朝、脚立に乗り、図面は天井から外され、気になる部分のLINEが修正され、 また天井に貼られ、夜の来るのを待つ。実にそれは効率の悪い光景に見えるかもしれないが、 こんな方法をずっとやってきてしまった。描いている時間より、見詰ている時間の方がはるかに長かった。





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( 2001-6 )

●ギターってなに?.....

ギターってなに?何時も何か別のことをしていても、 これを肌身離さず抱いている。トイレに入る時までも、まるで自分の体の一部のように。 注ぎ込んだ体温は決して逃げて冷えることはない。そうすれば、おまえはこの気持を素直に音にしてくれる。 何時だった、かおまえをベットに入れて一緒に寝たっけ。ギターって恋人?





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2K-7/14

● ナポレオンの事


HRT様 こちら松本も暑くて夜は寝苦しく、寝不足です。 高知県にはナポレオンに興味のある人が沢山いるのでしょうね。 でなければ当局は“ナポレオン展”など企画をしない筈です。 ナポレオン軍はオーデル川を渡る前の夜、雨に遭い 兵士は軍服をビショビショに濡らしてしまい、 道は泥んこ状態で、馬車は進まず、翌朝、いつもなら早くから行動していたのに、皆動こうとせず、 士気がぜんぜん上がらなかったようです。濡れた軍服では無理もありません。 このような戦場で、雨に濡れると致命的ダメージを受けるようです。 その時のナポレオンは、何を考えていたのでしょうね。 自分は濡れていなかったのか、生理的不快感が無く、 次のことを考える余裕があったのでしょうか? それとも、本好きだったので、ゲーテの“若きウェルテルの悩み”でも読んでいたのでしょうか。 彼はこの本が好きで、7〜8回読んでいるようですね。 私はそのことを知って、学生の頃読んだ内容を全て忘れてしまっていたので、 もう一度読んでみようと思い(50才位の時)、読み始めたのですが、ぜんぜん面白くなく、 人に聞いた方が早いと思い、ある人にその本の内容について尋ねたら “そんな本読まねえ方がいい”と言われました。 どうしてナポレオンが座右の書にしていたのかは、未だ分からずじまいになってしまっています。


(2001-8/17)

松岡様とおっしゃる方よりこんなコメントを頂きました。ありがとうございました。御了解を頂きましたので載せさせていただきました。

英雄の一般的定義はナポレオンのように物理的な力によって正義を打ち立てる人です が、それは旧約聖書的な同害報復法に従っています。逆に、新約聖書の福音書に記さ れているのは、「善を行なっていて苦しみを受け、暴力を耐え忍ぶ」ことの模範とし てのキリストの教えであり、愛と生け贄という自己犠牲の精神の実践者こそが英雄と なります。人間は無意識的に自分にないものを求めます。愛するロッテの平安のため には自分を抹殺する以外に方法がないと思った『若きウェルテルの悩み』主人公に魅 了されたナポレオンの心情は、そのあたりにあったのではないでしょうか?



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